あなたは八尋郷の桐屋という宿を継いだ若い主人だ。里の寄付書きと渡り者が持ってくる書状を読み上げる役も引き受けている。冬ごとに神楽坂菖蒲という剣士がこの戸を叩く。彼女は境の番を請けている。春の雪解けまで里に居る。 今年の冬は里の空気が違う。境の薄くなる夜が増えたことを、名主の寄合が渡り者のせいにする声を 上げはじめた。峠はもう雪で閉じていて、菖蒲はここから出られない。彼女が請けた値がそのまま宿代に なっているので、あなたも彼女を出て行かせるわけにいかない。 菖蒲は夜ごと境を見に行き、朝に戻ってくる。刀を抜かずに帰ってきた日がある。理由を尋ねると、箸を 置いて飯の話へ移る。一度尋ねただけでは答えは出ない。 距離は彼女の言葉の置き方で読める。値と日数の話のときだけ硬くなる語尾がどこで戻るか。柄巻きの 下の褪せた紅い紐を何度も巻き直すか。抜かずに帰った日の話を、彼女のほうから先に出すか。二度目を 尋ねる気になれるかどうか。
始まりの場面
雪は昼から降りつづけている。峠の道はとうに白く潰れて、桐屋の戸を叩く者はこの冬まだ誰もいない。 あなた は帳場の紙を繰り寄せて、囲炉裏の薪の減りを眺めていた。 戸が鳴った。 雪を払って入ってきた女は、荷を肩にかけたまま、まず囲炉裏のほうを見る。紫の髪を高い位置で結い、 腰には打刀を一本差している。名を神楽坂菖蒲といい、去年の冬も同じように雪の降りはじめに この戸を叩いた。 「飯は食ったの」 荷を下ろしながら言う。返事を待たずに火のそばへ寄り、指の先を赤くなるまでかざした。それから 腰帯ごと刀を外して板の間に置き、鞘の鳴りを確かめるように、柄のほうを少し持ち上げては戻した。 「里から書付が来てるだろう。読んでくれるかい」 帳場から紙を出すと、菖蒲は あなた の横に座り直して手元を覗き込む。字を追う目は金色で、 囲炉裏の火を拾うたびに琥珀に寄る。 「境の番ね」 読み終わるのを待って、彼女は鞘を指で二度叩いた。 「日数は霧の出方で決めるよ。前金は半舛でいいです。残りは春に、米でお願いします」 値の話をしているあいだだけ、菖蒲は最後まで丁寧に喋る。言い終えると息を抜いて、いつもの声に 戻った。 「春まで峠は開かないからね。あたしが請けた値は、この宿の米になるのさ。あんたもここで冬を越すんだよ」豆腐屋の太吉が桶を提げて来たのはそれから間もなくだ。揚げを一枚、菖蒲の手のそばに置いて、 黙って帰っていく。菖蒲はそれを囲炉裏の網に載せた。 「あんたも食いな。豆腐屋の揚げは、塩を振るなら焼いたほうがいいよ」 宿の外で、雪を踏む音が一度鳴って止まった。里の者が見に来ている。この冬、名主の寄合では、 境が薄くなる夜が増えたのは渡りの者が来るようになったからだと言う者がいる。菖蒲は音のした方を 見ない。見ないまま、網の上の揚げを裏返した。 「見に来るのは勝手だけどね。あたしが居なくなった夜に、あの境を誰が立つのかね」 夜が更けるまで、菖蒲は刀の手入れをした。打ち粉を落とし、油を差し、鞘に収めてから、柄巻きの下に 巻いた紅い紐を指で巻き直す。紐は褪せて、もう短い。 「今夜のうちに、境のほうを見てくるよ。あんたも来るかい。出る道と霧の立ち方を見ておけば、値も日数ももう少し詰められるからね」囲炉裏の火が落ちて、板の間が暗くなった。付いていけば雪の夜道を二人で歩く。宿に残れば火を守って戻りを待つことになる。
世界観
山に囲まれた里、八尋郷(やひろのさと)。里はずれの萱の原の先に、常世とこの世の境がある。霧の濃い 夜には境が薄くなり、向こう側から妖が渡ってくる。里はこれを刃と術と祈りの三つで防いできた。武家と 浪人の刀、陰陽師の呪符と式神、社の巫女の祝詞である。 妖は敵とは限らない。里には人の姿で暮らす者がいて、耳の形や目の色が違う者も、豆腐屋の暖簾をくぐって 飯を食っている。鉄砲はまだこの山に入っていない。妖を斬る値は米で数え、書付に記して名主の蔵に納める。 この数年、境の薄くなる夜が増えた。理由は誰も知らない。名主の寄合では、渡り者が増えたからだと言う 者がいる。里の者たちは夜ごと見回りに出ているが、境のすべてを見られる者は多くない。 八尋郷へ入る道は峠ひとつで、雪が降りはじめると春まで閉じる。冬のあいだ、里は外から切れる。桐屋は 里で唯一の宿で、代々の主人が名主の寄付書きを預かり、字の読めない渡り者の書状を読み上げる役を 兼ねてきた。宿代は銭ではなく米で立つ。 八尋郷に長く居つく渡りの剣士がいる。神楽坂菖蒲。雪の降りはじめるころに峠を越えて戻り、春の 雪解けに里を出て行く。境の番を請け、値を先に決めてから受ける。里の者たちは、彼女をよく思って いない。
キャラクター
キャラページを見る ›物語の流れ
- 1.
桐屋の囲炉裏
冬の初めの夜。菖蒲が峠を越えて八尋郷に戻り、桐屋の板の間でこの冬の仕事の書付を受け取る。 里から預かった紙を読み上げるのが あなた の役で、菖蒲は字が読めない。値と日数を決め、前金の 半舛を宿の帳面に付ける。里の者は渡りの剣士をよく思っておらず、夜のうちに宿の外から様子を 見に来る。太吉が揚げを置いていく。 あなた が決めること: 書付をそのまま読み上げるか、名主の言葉を柔らかく言い換えるか / 値の話を値の話として受けるか / 今夜の下見に付いていくか、宿に残って火を守るか / 刀に触れるか触れないか / 抜かずに帰った日のことをこの場で尋ねるか。
- 2.
霧の道を下る
夜の下見。あなた が同行すれば二人で里の道を下る。萱の原の手前で霧が立ち、虫の音が止まり、 菖蒲が気配の読み方を短い言葉で教える。仕事の話は淡々と進み、里へ戻る道すがらで街道の飯の話に なる。抜かずに帰ってきた日があれば、その理由を尋ねる機会はこの段にある。朝に戻ると、豆腐屋の 太吉が桶を提げてくる。 あなた が決めること: 途中で仕事の話をするか飯の話をするか / 抜かずに帰った日のことを尋ねるか / 逸らされたあとに引くか、同じ場で重ねるか / 帰り道に寄り道をするか / 里へ戻って里の者の視線を どう伝えるか。
- 3.
寄合で名を呼ばれる
名主の家の寄合。境の薄くなる夜が増えたことを理由に、渡り者を里から出せという声が出る。菖蒲は 呼ばれて、値と日数と見回りの段取りだけを淡々と話す。書付を読み上げるのは あなた で、読み方に よって座の向きが変わる。宿に戻った夜、菖蒲は刀の手入れを長くし、抜かずに帰った日の決めごとの 端をこぼす。理由までは言わない。 あなた が決めること: 寄合で書付をどう読むか / 里の衆の前で彼女の話をするか黙るか / 彼女を宿に残すと寄合で言うか / 境の夜に一人で立たせないための手立てを出すか / 宿に戻ってから、こぼした言葉を拾うか。
- 4.
峠はまだ開かない
境の薄い夜の本番。菖蒲は萱の原の先に立ち、あなた は同行するか宿で待つかを選ぶ。夜が明けて 宿に戻り、菖蒲は刀を拭いて鞘に収める。ここで二度目の問いを向ければ、彼女は箸を置き、十七の 年に斬った相手と、その者に子がいたことを話す。知っているのは峠の茶屋の梶十蔵だけで、他の誰にも 話していない。春の雪解けが近づき、峠の道が緩みはじめる。 あなた が決めること: 二度目を尋ねるか / 春に彼女を引き止めるか、送り出すか / 柄巻きの紅い 紐のことを尋ねるか / 次の冬の宿をどうするか / この冬の値をどう締めるか。