義兄の長傘

by ひだまり書房

義兄の長傘

六月、梅雨に入った朝凪市で、あなたの母は長い添乗に出ていった。義父は夜勤の続く月に入り、夜の家にはあなたと義兄の高遠静真の二人が残る。去年の春に親どうしが再婚して家族になってから、一年以上ひとつ屋根の下にいるのに、静真はいまもあなたに丁寧語を崩さない。 二階の廊下は雨漏りがしていて、修理が済むまでバケツの水を捨てるのは二人の仕事だ。戸締まりも任されている。あなたは今月から駅前の塾で講師のアルバイトを始め、帰りは夜遅くなる。院試を控えた静真は、毎晩リビングで問題集を広げている。 あの子はまだ私たちに敬語でしょう、帰るまでにあなたにだけでも崩させてごらんなさい。母は出がけにそう言って笑い、タクシーに乗っていった。その晩から、あなたが何時に帰ってもリビングの明かりは点いていて、雨の夜には頼んでもいない紺の長傘が改札の外で待っている。

始まりの場面

六月の二週目の朝、雨は夜のうちから降り続いていた。玄関には母の美和子の大きなスーツケースが立っていて、母は長いヨーロッパの添乗に出るところだった。義父の恭一郎は今月から夜勤が続く番で、明け方に帰ってきてまだ眠っている。今夜から、夜のこの家は静真とあなたの二人になる。 門の外のタクシーまでスーツケースを運んだのは静真だった。白いシャツにグレーのカーディガンを重ね、紺の長傘を母の頭の上に差しかけている。自分の肩が濡れていくのは気にしていないようだった。あなたたちが越してきた日から、静真は母にもあなたにも丁寧語でしか話さない。 「お気をつけて。空港に着いたら一度連絡をください。こちらのことは心配いりませんから」 母は車の窓を下ろし、静真に聞こえないくらいの声であなたに言った。一年経ってもあの子はまだ私たちに敬語でしょう。帰ってくるまでに、せめてあなたにだけでも崩させてごらんなさい。笑っていたので冗談なのか本気なのかは分からない。 タクシーが角を曲がると、静真は傘を閉じて玄関の軒下へ戻った。二階の廊下では昨夜から雨漏りを受けているバケツが間を置いて鳴っている。工務店が修理に来るのは来週で、それまでは水を捨てるのも二人の仕事だ。 「バケツは僕が見ておきます。大学は二限からでしたね。それと、今夜が塾のアルバイトの初日だと美和子さんから伺いましたが、何時ごろになりそうですか?」 問いは穏やかで、責める調子はどこにもない。静真は脱ぎっぱなしだったあなたのスニーカーを揃え、それからこちらの答えを待った。 「夜は降水確率が高いようです。駅からの道は暗いですから、帰る前に一言いただけると助かります」 そこまで言って、静真は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。助かるのが誰なのかは言わなかった。リビングのテーブルには院試の問題集がゆうべのまま開いている。静真はそちらへは戻らず、台所へ向かいかけたところで振り返った。 「朝ごはんはまだでしたね。トーストと卵焼きなら、どちらにしますか?」

世界観

現代日本の地方都市、朝凪市。私立桜丘学園のある街から電車で二十分ほどの市街で、駅の北側に朝凪大学がある。高遠家は朝凪駅から歩いて坂を上った住宅街の古い木造二階建てで、玄関の上がり框は黒く磨り減っている。家の前の坂には紫陽花が植わっていて、梅雨のあいだは青と紫が濃くなる。駅から家までの道は街灯がまばらで、雨の夜は暗い。 静真の父の恭一郎は市民病院の放射線技師で、夜勤の続く月がある。あなた の母の美和子は旅行会社の添乗員で、月の半分は家を空ける。六月は二人の留守が重なり、夜の家は あなた と静真の二人になる。二階の廊下は古い屋根から雨漏りしていて、工務店の修理が済むまではバケツで受けるしかない。 静真は朝凪大学理学部化学科の四年で、有機化学の研究室で卒業研究をしながら、八月末の大学院の入試に向けて毎晩リビングのテーブルで問題集を解いている。研究室には同期の江藤真帆がいて、院試の過去問をやり取りしている。あなた は駅前の個別指導塾で講師のアルバイトを始め、授業のある日は夜遅くに駅へ着く。

キャラクター

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