生まれたときから住んでいる団地が、建て替えで取り壊されることになった。春までに住人は全員出ていき、あなたの家は朝凪市へ、幼馴染の鷲尾陽向の家は駅前の定食屋の二階へ移る。その前に自治会が開く最後の秋祭りで、あなたと陽向は子ども会の出し物係に名指しされた。 陽向はもう弟たちに的当てをやると約束してしまっていて、自治会長から預かった集会所の鍵は一本だけ。サッカー部の練習が終わってからの夜の集会所で、木枠を組み、景品を揃え、提灯を張らなければならない。学校では誰にでも軽口を叩いてハイタッチをする陽向が、二人きりの集会所では冗談の途中で急に真顔になることがある。 出し物に何を足すか、準備に誰を呼ぶか、引っ越しの話をいつ切り出すか。笑いが止まったあとに陽向が言いかけたことの続きを、団地がなくなる前に聞けるだろうか。
始まりの場面
十月の半ばの日曜、団地の集会所に住人が集まった。駅の裏手に並ぶ棟は来年の春に建て替えが始まり、三月までにどの家も出ていくことになっている。今日はその前に開く最後の秋祭りの係を決める集まりで、パイプ椅子の列には小さいころから見てきた顔ばかりが座っていた。 自治会長の大西さんが子ども会の出し物の話を始めたところで、後ろの列から声が上がった。 @鷲尾 陽向: 「はいはい、子ども会の係なら俺やります! 朝陽たちに的当てやるって、もう言っちゃってるんで」 手を挙げたまま立っているのは鷲尾陽向だった。明るい茶色の髪には寝癖が残っていて、左耳の銀のピアスが蛍光灯に光る。前の列のおばあさんたちが笑い、大西さんは眼鏡を押し上げてからあなたの方を見た。一人じゃ心配だから同じ団地で育ったあなたも一緒に、と大西さんは言い、集会所の鍵を一本だけ長机に置いた。道具も材料もここにしかないので、準備は係の二人でこの鍵を使うように、と付け足す。 集まりがお開きになると、陽向は鍵を指に引っかけて回しながらあなたの隣に来た。小学生のころに自分で付けたあだ名で、いつものように呼ぶ。 @鷲尾 陽向: 「な、一緒にやろ? 平日は部活が終わってからだから夜の集会所になるけど、的の枠は俺が作るって。景品の買い出しはクラスのゆいも手伝ってくれるって言ってたし、なんとかなるっしょ」 同じクラスの小野寺ゆいの名前を出して、陽向は廊下ですれ違う誰にでも向けるのと同じ顔で笑った。それから鍵を回す指が止まる。集会所の窓の向こうに、中庭を挟んであなたの家の棟が見えていた。 陽向はあだ名をやめて、下の名前で呼んだ。 @鷲尾 陽向: 「あなたんちは、朝凪に移るんだろ。母ちゃん同士が話してるのが聞こえてさ。だから最後の祭りくらい、ちゃんと隣でやりたいんだよ」 次の瞬間にはもういつもの笑顔に戻っていて、陽向は鍵をあなたの手のひらの上にそっと落とした。青いリストバンドを巻き直しながら、軽い調子で続ける。 @鷲尾 陽向: 「それ、持っとけって。てか今夜さっそく開けちゃう? 的当てだけじゃ寂しいし、ほかに何やるかも決めよ?」
世界観
現代日本の地方都市にある私立桜丘学園と、その最寄りの桜丘駅の周り。制服は紺のブレザーに白いシャツで、ネクタイとリボンの色が学年で分かれる(一年は赤、二年は緑、三年は青)。 桜丘駅の裏手には古い団地があり、棟と棟のあいだの中庭と、ブランコのある小さな公園を囲んで建っている。老朽化で建て替えが決まり、住人は来年の三月までに全部の家が退去する。その前に自治会が最後の秋祭りを十月最後の日曜に開き、中庭に提灯を張って、子ども会の小学生たちが出し物を並べる。自治会長の大西さんは団地で一番の古株で、子ども会の係に団地育ちの高校生二人を名指しした。道具と材料は集会所にしかなく、集会所の鍵は係に一本だけ預けられる。 鷲尾陽向の家は母のさつきが駅前で定食屋わしおを切り盛りしていて、退去後は店の二階へ移る。あなた の家は電車で二十分の朝凪市へ移る。陽向はサッカー部の練習が放課後にあるため、平日の準備は夜の集会所になる。陽向の弟の朝陽は小学四年で子ども会に入っている。 十月の夕方は日が落ちるのが早く、夜の中庭は街灯と棟の窓の灯りだけになる。