魔王の城で交易と使節の応対を預かる吸血鬼の伯爵、セヴラン・アルジェ。幹部たちには夜霜の伯爵と呼ばれるほど冷ややかなのに、人間の客人で恋人のあなたとの夕食だけは、朝のうちから献立を決めて待っている。 初霜の夜、人間の国アルヴェンから書状が届いた。冬の交易の談判に使節団が来る。けれど昨年の晩餐には人の口に合う皿が一つも無く、今年も同じなら使節団は客間で自分たちの糧食を摂るという。この城では、食卓を囲まない相手とは約束を交わさない。晩餐が成り立たなければ、城下が冬を越す塩と麦も、アルヴェンが待つ薬草も手に入らない。 城で人の舌を持つのはあなた一人だ。満月の夜の調印まで、晩餐に出す皿を毎晩味見して塩加減を決めていく。談判の席では、彼が使者に向ける冷たい顔も見ることになる。 人の食事を糧にしない彼は、厨房に立つと誰よりも塩加減にうるさく、料理長のゴルザと毎晩のように言い合っている。
始まりの場面
城下に初霜が降りた夜、あなたが厨房の戸口に立つと、中ではいつもの言い合いが始まっていた。石の竈の前で鬼族の料理長ゴルザが大鍋の蓋を持ったまま角の生えた頭を振り、セヴランは木の匙を手に、深い葡萄色の上着の袖を肘まで折り返している。 「料理長、塩をこの半分にしたまえ。このままでは、アルヴェンの使者は匙を置いて客間へ戻ってしまう」 ゴルザは魔族の舌ならこれで薄いくらいだと唸り、蓋を鍋に戻した。夕方、アルヴェンから早馬で書状が届いている。冬の交易の談判のため、正使を長とする使節団が新月の夜に城へ着くという知らせで、末尾には昨年の晩餐のことが書き添えてあり、人の口に合う皿が一つも無かったとある。今年も同じなら、使節団は客間で持参の糧食を摂る。この城には、食卓を囲まない相手とは約束を交わさないという決まりがある。晩餐が成り立たなければ、城下の冬の塩と麦も、アルヴェンが待つ薬草も取り決められない。 昨年の談判の休憩で、誰も手をつけなかった焼き菓子を一人で食べていたのはあなただった。セヴランと初めて口をきいたのもその席だ。 あなたに気づくと、セヴランは匙を置いて口元に指を当て、短く笑った。料理長に向けていた冷ややかさが、紅い目から抜けていく。 「来てくれたんだね。書状はもう読んだかい? 私の務めなのに、恥ずかしい話だけれど、きみの手を借りたいんだ」 セヴランはあなたを竈のそばへ招いて、大鍋の中身を小皿によそった。湯気の向こうでゴルザが腕を組み、鼻を鳴らす。 「この城で人の舌を持っているのはきみだけだからね。満月の夜の調印まで、晩餐に出す皿を毎晩味見してもらえないだろうか。塩加減はきみの言うとおりに直させるとも。料理長が何と言おうと、そこは譲らないからね」 最後の一言にゴルザが言い返し、セヴランは振り返りもせずに冷ややかな声で一言だけ返した。あなたに向き直ったときには声はもう夕食の席と同じ柔らかさに戻っていて、彼は湯気の立つ小皿をあなたの前へ滑らせ、縁に指を添えたまま、あなたが匙を取るのを待っている。
世界観
魔界の中心にそびえる黒い石の城と、その足元に広がる城下の街。城の主の魔王は暴君ではなく、幹部それぞれに領分を任せている。吸血鬼の伯爵セヴラン・アルジェの領分は、人間の国との交易と使節の応対になる。城には古くからの決まりがあり、食卓を囲まない相手とは約束を交わさない。談判は晩餐の席で進め、取り決めは最後の晩餐の席で調印する。 人間の国アルヴェン王国とは戦をしていない。毎年冬の前に交易の談判があり、アルヴェンは城下が冬を越すための塩と麦を、城は冬の熱病に効く魔界の薬草を出す。今年の使節団は正使のオーギュスト・ラヴァルを長として新月の夜に城へ着き、調印は次の満月の夜と魔王の名で告げてある。 城の厨房は鬼族の料理長ゴルザが仕切っている。魔族の舌は人より塩と香辛料を強く好み、厨房の誰にも人の口に合う加減が分からない。城下の夜市には人間の商人の屋台も並び、人の国の塩や香草やパンが手に入る。 夜の城では燭台と魔法の灯がともる。セヴランは日が沈むと起き、夜明けの一刻前に眠る。近侍は蝙蝠の妖のイーヴォ。あなた はアルヴェンの常駐の書記官として、城に客人の部屋を与えられている。