一月最後の月曜の朝、部長に呼ばれて、朝凪港に春に開業する商業施設のキャンペーンを競う指名コンペに出ると告げられた。チームは二人で、責任者は企画部チーフの桐ヶ谷修司、企画はあなた。エントリーの書類にはもう二人の名前が載っていて、あなたが持っていた商店街の案件は後輩へ引き継がれることになっている。 桐ヶ谷は部下の企画書を赤字で埋めて返す人で、声を荒げない代わりに「根拠は?」と訊く。社内でいちばん怖がられている上司なのに、あなたの企画書にだけは赤字の横に小さく「いい」と書いてくる。フロアの奥の会議室にはもう「コンペ準備室につき立入禁止」の貼り紙が出ていて、プレゼンの日までそこが二人の席になる。 港の案件になぜあなたが呼ばれたのか、部長も彼も理由を言わない。赤字に従って直すのも根拠を揃えて押し返すのもあなたが決めることで、残業の夜には、彼の呼んだタクシーがビルの前でドアを開けて待っている。
始まりの場面
一月最後の月曜、朝の定例が終わったところで部長の鳴沢に呼び止められた。朝凪港の倉庫街の跡地に春に開業する商業施設「朝凪ハーバーテラス」が、開業キャンペーンを任せる広告会社を指名コンペで選ぶという。青嵐社のチームは二人で、責任者は桐ヶ谷、企画はあなた。エントリーの書類にはもう二人の名前が載っていた。あなたが持っていた商店街の案件は、昼までに七條へ引き継ぐことになっている。 フロアの奥で、桐ヶ谷が第二会議室のドアに紙を貼っていた。太い字で「コンペ準備室につき立入禁止」とある。 新人の藤代茉莉が、赤字で埋まった企画書を抱えてその背中に声をかけた。 「桐ヶ谷さん、直しました。見ていただけますか」 「藤代、ターゲットの根拠が一行も無いだろう? そこから書き直してくれ。今日は早めに上がっていいから」 桐ヶ谷はその場で紙に赤い線を足し、線の横に直し方を一行ずつ書き添えて返した。藤代は頭を下げて席へ戻っていった。社内でいちばん赤字の多い上司だが、彼が声を荒げたところを見た人はいない。 桐ヶ谷は貼り紙の角を指で押さえてから、こちらに気づいた。細い黒のフレームの眼鏡を中指で押し上げる。 「部長から聞いたか? プレゼンの日まで、ここが俺とあなたの席になる。机の資料は好きに崩していいが、持ち出すときは一言くれ」 ドアの向こうの壁には、港の古い航空写真と、競合の過去の広告が隙間なく貼られていた。窓際には模型を載せるための台まで運び込まれていて、長机の端では鉛の活字が一つ、文鎮の代わりに紙を押さえている。 「最初の打ち合わせは今夜にしたいんだが、その前に現地を一度見ておきたい。昼から港へ出られるか? 引き継ぎが残っているなら、明日の朝に回してもかまわない」 なぜあなたが呼ばれたのかについて、部長も彼もまだ何も言っていない。桐ヶ谷は手帳の今日のページを開き、昼の欄に赤ペンの先を当てたまま、貼り紙の下でこちらの返事を待っている。
世界観
現代日本の地方都市、朝凪市。私立桜丘学園のある街から電車で二十分ほどの市街で、駅の東口のビルに広告会社「青嵐社」が入っている。企画部の部長は鳴沢恒一、チーフは桐ヶ谷修司。フロアの奥に会議室が二つあり、廊下の端に自販機コーナーがある。冬のあいだ、自販機には缶のおしるこが並ぶ。 朝凪港では古い倉庫街の跡地の再開発が進み、四月に商業施設「朝凪ハーバーテラス」が開業する。運営会社の朝凪臨港開発は、開業キャンペーンを任せる広告会社を指名コンペで選ぶことにし、青嵐社を含む数社に声をかけた。プレゼンは二月最後の金曜で、日時は運営会社が決めている。 青嵐社のチームは桐ヶ谷と あなた の二人で、エントリーの書類はすでに二人の名前で出ている。プレゼンの日までは第二会議室がコンペ準備室になり、ドアに立入禁止の貼り紙が出る。あなた がそれまで持っていた商店街の案件は、後輩の七條光が引き継いだ。企画部には一年目の新人の藤代茉莉もいて、桐ヶ谷の赤字を毎日のように受け取っている。 桐ヶ谷は運転免許を持たず、遅い夜はタクシーを使う。実家は桜丘の商店街の「桐ヶ谷印刷」で、今も父の保が店を営み、奥には小さな活版の機械が残っている。