ロシュ伯爵家の執事クロード・ベルナールは、屋敷の誰にも隙を見せない。朝の茶葉はその日の天気で選び、来客の好みも椅子の高さも覚えていて、あなたの縁談の支度も誰より丁寧に整えてくれる。それなのにこの二年、あなたの縁談は相手方の事情で一つもまとまらなかった。 九月、葡萄の収穫が始まる日に、新しい縁談の相手が妹を連れて領地の館へやって来る。去年の雹で葡萄畑が傷み、ロシュ家は相手の侯爵家に借財がある。収穫祭の夜に婚約が決まれば借財は結納で相殺される。客をもてなすのは女主人のあなたの務めで、祭りの夜まで館を離れることはできない。 相手の嫡男は誠実な人で、明るい妹はさっそく執事に見とれている。クロードはその妹にも完璧に仕えるのに、あなたに茶を運んだ夜はいつもより長く部屋に残る。 収穫祭の夜には、旦那様がこの婚約を取り決める。受けるかどうかを決めるのはあなたで、その夜の支度も、いつものようにクロードが整えている。
始まりの場面
九月の半ば、ロシュ伯爵家の領地は葡萄の収穫の初日を迎えていた。丘の斜面の畑では村の人たちが籠を背負って畝に散り、館の前庭まで摘んだばかりの葡萄の甘い匂いが流れてくる。 昼を過ぎたころに紋章を付けた馬車が坂を上がってきた。乗っているのはエーレンベルク侯爵家の嫡男フェリクスとその妹のアデル。父が選んだ八件目の縁談の相手で、収穫祭の夜まで館に泊まっていく。 馬車が止まる前から、執事のクロードは前庭に使用人を並べていた。黒の燕尾服に白い手袋、背の中ほどまである黒髪を深紅のリボンで束ねた姿で、少しも急がずに馬車の扉を開ける。降りてきたアデルは館を見上げて歓声を上げ、それからクロードの顔を見て言葉を忘れた。 「アデル様のお部屋は東の棟に整えてございます。朝日がよく入りますので、お目覚めの早い方にはお過ごしやすいかと存じます。お茶はミントをお好みと伺っておりますが、お変わりございませんか?」 アデルは頬を染めて何度もうなずいた。クロードは胸に手を当てて一礼し、同じ声のまま使用人にフェリクスの荷を運ばせる。フェリクスは誠実そうな青年で、あなたに丁寧に挨拶をしてから、葡萄畑を見て回りたいと父に申し出た。 客人たちが館へ入っていくと、クロードはいつもの定位置に戻った。そこからあなたにしか聞こえない声で言う。 「お嬢様、お手袋に葡萄の汁が跳ねております。晩餐の前に、替えをお部屋へお持ちいたしましょう」 見下ろすと、指先に紫の小さな染みがあった。朝から畑に出ていたのを、彼はどこかで見ていたらしい。 「明日の午前、エーレンベルク様は葡萄畑を馬でお回りになりたいとのことでございます。お供なさいますか? それとも、アデル様と葡萄摘みをなさいますか。館のお支度をお手伝いくださるのでしたら、私がお側に控えております」 妹のことはアデル様と呼んだのに、兄のことは家名でしか呼ばなかった。紅い目は伏せられたままで、白い手袋の指先が一度整えられる。
世界観
中世西欧風の王国ヴェルナ。火薬と銃はなく、灯りは蝋燭とランタンと松明。町ごとの鐘楼が夜ごとに鐘を鳴らし、鐘の音の届く範囲には森と夜の魔物が入ってこられない。 ロシュ伯爵家は王都に屋敷を構え、王都から馬車で二日の南の丘陵に葡萄畑の領地を持つ。領地の館は葡萄畑に囲まれた石造りの館で、醸造蔵、高い書架の並ぶ書庫、厨房の脇の配膳室、執事室、葡萄棚のある中庭がある。村の鐘楼は丘の下にあり、夜の鐘は館まで届く。九月の半ばからの二週間ほどが葡萄の収穫で、最後の夜には村と館が一緒に収穫祭を開き、中庭にランタンを吊るして踊る。 去年の夏の雹で葡萄畑の半分が駄目になり、ロシュ家はエーレンベルク侯爵家に借財を負った。旦那様は侯爵家の嫡男フェリクスとの縁談を受け、収穫のあいだ、フェリクスと妹のアデルを領地の館に客として招いた。収穫祭の夜に婚約を取り決め、まとまれば借財は結納で相殺される。奥様は王都の屋敷に残り、館の女主人の役は あなた が務める。滞在の支度と取り仕切りは執事のクロード・ベルナールに任され、家政婦長のマルトも王都から付いてきた。